世界をセルフビルドすることについて

2021年3月(当初の予定では1月)の個展について、ギャラリー担当者の方とお話しする中で書いた文章を公開します。自分にとっての、絵を描く必要性についてのノートです。

--------------------------------------------------------------------

育児中のお母さんが、子どものミニカー遊びにうまく付き合えないと感じていたところ、お父さんがミニカーをビューンと壁まで走らせ、お子さんは喜んでそれを追いかけたのを見て、「そんな遊び方で良かったのか」と驚いた、というブログ記事を配偶者から教わりました。

この記事でお母さんは、ミニカーに対して外在的な関係にあります。つまり、ミニカーの機械的・物質的なあり様についてお母さんはアクセスできます。お子さんは、ここでミニカーに内在しています。お子さんが内在しているミニカー、あるいは正確に言えば「ミニカーへの内在」は、お母さんからアクセスできません。たとえお父さんの介在によって遊び方を学んだあとでも、お母さん自身が、ミニカーに内在しているとは言い難いでしょう。重要な契機をつかんだとしても、未だ内在は獲得されていない。僕は自分の子ども時代を思い出しました。

子どもがおもちゃ売り場で、売られているミニカーを指さし「あれが欲しい」と泣き叫んでいる、そこで子どもは目にした瞬間、もうそのミニカーに内在しています。なぜ子どもは泣くのでしょうか? それは、もう既に自分がそこに内在しているミニカーが、社会的経済的な次元で、あとから取り上げられたからです。目にした瞬間に内在していたミニカーに、物質的な水準でアクセスできない、その不条理に子どもは訴えます。あれは最初から自分のものだ(自分は内在している)。なのに持って帰って遊べないのはおかしい。親は、その感情が理解できません。ミニカーへ内在できない親は社会的経済的な次元で、後からミニカーを買い与えることはできます。しかしミニカーを、後から買うなんて、遅すぎる

ミニカーが内在を誘うのは、「ミニ」だからです。世界の似姿が縮小されて改めて現れ、それを自分で床に配置-組織し直すことは、自分が世界に感じている不安を解消し、世界を親密に掴み直すことにつながります。自分の手の中にあるミニカーに、自分は、改めて、もう一度内在しなおす。自分の存在をもう一度自分の手にもった、そのひんやりとした温かさは、子どもをめくるめく「ミニ-世界」にダイブさせます。

子どもはミニカーを床に置くことで、床に世界をセルフビルドしています。つまり、そこで世界はもう一度作られ直しているのです。セルフビルドされた世界は、今まで見逃していた、触り逃していた感覚を、知覚を、肌理を、新たに子どもに与えています。自らがセルフビルドし内在しなおした新しきミニカー世界に、子どもは新しきルールを打ち立てます。「ビューン」と壁まで走らせる、それを追いかける、というルールを。

もう少し詳細に見ましょう。子どもにとって床はあらかじめ与えられた床ではありません。ミニカーを「走らせる」という行為を行った瞬間、そこにミニカーを受け止めた場としての「大地」が、仮想的に生成されます。ここで子どもはこの仮想大地を上空から俯瞰しています。ここで子どもがセルフビルドしたのは、ミニカーとその接地面が展開した仮想大地=仮想惑星と、それを惑星たらしめた自らの身体の仮想化(天使化、あるいは人工衛星化)の両方です。子どもは空を飛びながら地面を走ります。二重化された身体。

驚くべきことに、子どもは宇宙をセルフビルドしています。ここで子どもはありとあらゆる法則を仮想惑星において再定義します。時間(歴史)を含め、走るミニカーは直ちに恐竜もスマートフォンもウルトラマンもカブトムシも召喚可能な状態にアイドリング(潜在的準備状態)しますが、しかしそれは「なんでもあり」ではありません。むしろ、子どもの倫理、つまり遊びのルールは厳格な順序を要求するでしょう。ミニカーは時にぶつかり合ったりしても構わないのですが、そこにいきなりウルトラマンは出てきてはいけません。しかるべきミニカーの疾走行為が繰り返された後、その時空間が飽和した中で、厳かに、その飽和を解体するためにウルトラマンは登場します。このタイミングの厳密さはまさにセルフビルドされた場に内在していなければ理解できない──外在しかしていない親が、適当にこの惑星にウルトラマンを放り込めば、往々にして子どもは「ちがう!」と叫ぶでしょう。

酒井駒子の絵本『リコちゃんのおうち』における、リコちゃんのセルフビルドした「おうち」への、粗暴だったはずの兄の繊細極まりない入場の仕方を思い出さなければいけません。リコちゃんは明らかに「おうち」だけをセルフビルドしたのではない。「おうち」をセルフビルドしたことで、その「おうち」を起点とした時空間とルール=倫理をセルフビルドしています。無論、ミニカー遊びをする子どもの視点が俯瞰的であったことと、リコちゃんの、いわば内部から花ひらくような世界生成の方法の視座の差異は重要ですが、ヴァーチャルな世界生産、規定的な(つまりあらかじめ与えられた)環境の一部をフレーミングすることで、まったく別の宇宙を展開させている共通性には注目していいでしょう。

『リコちゃんのおうち』中のお母さんは、いわばその世界への内在とも外在とも異なる位置にいます。箱にハンカチを置く場面で、リコちゃんに向けて、いわばお母さんは世界産出の契機を産出しています。なぜ彼女にそれが可能だったのか? 言うまでもなく、箱にハンカチを置く瞬間、お母さんはお母さんであることから脱し、いまだ生まれたことがない仮想の子どもになっていたからです。このように、人は自分をすら規定的世界から脱させる論理を獲得します。居場所をもう一度、セルフビルドすること。世界に、もう一度産まれ直してみること。ミニカーを床に置く行為、ミニカーをにわか雨のように降らせ、そこに新しき大地を組み立てること。箱に一枚のハンカチを置き、生まれたことのない子供になること。

あらかじめ僕たちのものであった惑星を、あとから社会的経済的次元で買い与えようとする者から奪還してみせること。泣き叫ぶ行為は、何回も産まれ直すための産声です。あのわがままを、手放してはなりません。

画像1


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?